アントン・ウェーベルンの「ピアノのための変奏曲」
 アントン・ウェーベルン(Anton Webern)の「ピアノのための変奏曲」のMIDIファイルを打ち込んだが、どうも著作権の問題で公開はできないらしい。アントン・ウェーベルンはシェーンベルクの弟子で1945年に亡くなっているので既に50年以上が経っている。従って、たぶん日本の法律では問題はないだろうとは思うが。(しかし、こういう重要な作品の著作権をまだ誰かが抱え込んでいるというのは恥ずべきことであると私は思う。)ということで、MIDIデータはここにはおかないが、図形的に書いた譜面を引用しながら、これがどんな作品か素人ながら論評を加えたいと思う。
 これが、どういう意味で変奏曲なのかというのは議論のあるところらしいが、第一楽章と第二楽章は明らかにシンメトリーの遊びである。第一楽章は時間的な裏返しの遊びである。回文というのがあるが、それである。「よのなかばかなのよ」の類である。 図1をご覧いただきたい。冒頭の部分である。4−7小節目は、1−3小節の時間を反転したもの、8小節と10小節もそうである。ただし9小節目には対称的でない特徴的なパタンが入っている。このパタンは第一楽章の中に3度出てくる。11小節から14小節は時間だけでなく音程の方も反転させたものに近い。第一楽章は、このような、回文のつながりでできている。図形的に表示すると何か虫がならんでいるような感じであるが、響きはウェーベルン独特の長7度、減9度を多用した、強く印象に残るものである。なお、それぞれ回文の前半までで12音すべてが一回づつ出てくるようになっている。
 第二楽章は、図2に示す通り、Aの音を中心にして音程の対称性の遊びである。この楽章はテンポが速く、演奏にはたぶん超テクニックを要するので、最初に聞いたときにはこの楽章がいちばん印象に残る。なお、前半、後半、それぞれ繰り返しという古典的な構成になっている。
 第三楽章は、対称性の観点からは明確な意図は見られない(図3)。回文の部分も出てくるが、いろいろな要素から構成されていて複雑である。形式もはっきりしない。
 ところで私の場合、ウェーベルンの作品との出会いというのはもう20年以上も前、学生だった頃のことで、そのころピエール・ブーレーズのウェーベルン全集を買ったのがきっかけである。ウェーベルンは寡作で早死にだったので全集といってもLPで4枚組である。何故、それを買ったかというとバッハの「音楽の捧もの」の ウェーベルン編曲版を聞きたかったのである。当時、NHKFMでは、いい音楽番組がたくさんあった。確か「現代の音楽」のテーマがウェーベルン編曲の「音楽の捧もの」であった。そういえば、小泉文夫氏(故人)の「世界の民族音楽」も面白い番組であった。バリのケチャなどを知ったのもそのころであった。さて、それで、そのウェーベルン全集を擦り切れるほど聞いたかというと、実は全く反対でほとんど聞かなかった。たぶん名盤なのだろうが、私にはどうも面白くない。何か私の生活とは関係のないところの音楽のようである。「ピアノのための変奏曲」を再発見したのは、数年前、グレン・グールド(1932-82)の1957年のモスクワリサイタルのCD(ビクターVICC-2104)を聞いてである。これはグールドのCBSソニーの正規の録音ではないのでずっと聞く機会がなかったのだが、実に面白い録音である。少数の聴衆に、講義を交えて、ベルク、ウェーベルン、クシェネックそれにバッハを演奏している。このなかでは、ウェーベルンの作品1の「オーケストラのためのパッサカリア」の冒頭部分をピアノで弾いたりもしている。ウェーベルンは点描といわれる簡潔な作風で知られるが、初期のこのパッサカリアは音の多い後期ロマン派的な作品である。立派な作品で、たぶんこれがあると無いではウェーベルンの評価は違ったかもしれない?ちょうどシェーンベルグの「浄夜」みたいなものかもしれない。それはいいとして、「ピアノのための変奏曲」の冗談?のような楽譜がグールドの演奏ではゾクゾクするような音楽になっている。
 MIDIファイルの話に戻るが、これをピアノプレーヤに弾かせると爽快である。